この記事では、私自身の体験談を赤裸々に話しております。
しんどい思いをしているのは自分だけではないということをまずは知って、少しでも勇気を持ってもらえたら嬉しいです。
私(五十嵐)の簡単な自己紹介
整体師として25年間、大阪市淀川区(東三国)でリフレッシュ・ジョイというサロンを運営しています。
整体師としてお仕事をしていて、お客様からの精神的な悩みなどを、いつも聞いていました。
肉体の不調・体の痛みがなかなか改善しない方の特徴として、
「精神的な悩みがあって、その解決方法がわからない」
ということに気が付きました。
整体に来てもいつも同じお話を聞く、、ということが続くんです。
そこで、お客様の精神的なお悩みを解消するために、2020年からオンラインカウンセリングをスタートしました。
現在は、実店舗では整体の施術を、オンラインではカウンセリングを行っています。
私の生い立ちについて
母方の祖母が隣にいる環境で2歳上の兄と、4人家族という環境で育ちました。
私は1969年生まれで、私の幼少期の日本は、高度成長期でした。
母親は専業主婦でしたが、私が幼稚園の頃から、自宅で個人で塾のようなことを始めるようになりました。
当時は私も母の生徒として、同い年の友人と一緒に英語の絵本を読んだりしていた記憶があります。
父と、父の飲酒について
私が小学校低学年の頃、父親が関東に転勤になり、単身赴任をしていました。
その期間は2,3年は単身赴任していたと思います(曖昧ですが)。
父は、もともとはお酒が飲めないタイプだったようです。
単身赴任先で、寂しさを紛らわせるためにお酒を飲むようになったと、後に母から聞きました。
私が中学生の頃には父は大阪に戻りましたが、その頃から毎晩飲酒するようになりました。
飲みすぎるようになり、アルコール依存へ
当時の父親は、どんどん飲酒量が増え、私が高校生の頃には、泥酔し、翌日会社に行かない日が増えていきました。
- 飲みすぎて、その翌日、体調が悪くなる。
- 体調不良で1、2日は家で療養する。
- 胃腸を悪くしてトイレに通いながら横になって過ごし、回復してきた頃に「雑炊を食べたい」と母に頼んでいました。
- 大体、数日サイクルで飲み過ぎて体調を崩し、休む、、
だいたい、こういうパターンが繰り返されていました。
当時、母親は自宅のすぐ近くで塾を経営していました。
子どもが多い時代で、私と同世代の近所の子どもたちがたくさん塾に来ていました。
平日は毎日、教室をオープンして、他の曜日は答案の採点と、次の教室日のための準備に追われる・・。
バブル期で、日本全体に活気があった時期です。
母と、隣の家にいる祖母(母方)は医者でした。
祖母は医者として通勤し、夜だけ自宅で開業医として経営もしていたので、母も祖母も多忙を極めていました。
多忙な母と、仕事に行かない父との対比が激しくなってくる
母も祖母も多忙な中、父だけが一人で酒を飲み、会社を休んだり、家で何もせず暮らしている・・。
父は、昼に眠っているので夜は眠れなくなりました。
それなのに母が夜、疲れて眠っていることに腹を立てて、夜中に母を叩き起こします。
そして、酔った勢いで母に暴力を振るうようになりました。
夜、父母が喧嘩する声が聞こえる・・。
「また始まったのか」
私はそう思っていました。
兄は当時高校生でしたが、小柄な父よりもずっと身長が高く体格が良かったため、兄が介入すると父はすぐ大人しくなりました。
でも、、兄が父母の間に入り止めてくれることはほとんどありませんでした。
兄はその後すぐに大学生になって、隣家の祖母の家の2階に移り住んでしまいました。
祖母の家は、隣家とはいえ、別棟です。
家には、父母と私の3人となりました。
それからは、私は母といっしょに父の暴力に立ち向かうことになりました。
暴力のターゲットは基本的には母でしたが、私も父に腹が立って喧嘩を売ったりしました。
たまに私にも手を上げようとしていました(母が絶妙なタイミングで止めてくれましたが)。
父は、お酒を飲んで暴れるときには形相が変わって、怒って一人で大声を出したり物を壊したりしました。
でも、その発作が収まると大人しくなります。
自室にこもり、静かになる。
父はいつも、後になって体調が悪くなり、飲みすぎたことを後悔して落ち込んだ様子になります。
「飲んだときに何をやってしまったのだろう?」と、不安や恐怖が出てきていたと思います。
飲んだ時にやったことを、覚えていないことが増えていきました。
父はなぜ「お酒に逃げる」ようになったのか?
母から聞いた話では、父は関東に単身赴任していた間は営業職をしていたようです。
父の性格は大人しく、図面を描いたり電気部品をいじるのが好きな人でした。
関東では、合わない仕事内容に苦しんでいたのかもしれません。
単身赴任から戻してもらうように母が上司に何度か手紙で頼んで、大阪には戻してもらえました。
でも、父は、戻してもらった大阪の職場でも居心地が悪かったようです。
父は単身赴任で職場を離れているうちに、出世の道から外れてしまったのです。
いつのまにか過去に自分より後輩だった人が出世し、役職がついていたりー。
(ちなみに、父は有名な大企業に勤務していましたが、出世できるタイプではなかったです)
父は、会社でつらい思いをしていたのだと思います。
悩みを誰かに相談できるほど、社交的な性格でもありませんでした。
だから、会社でのストレスを解消したくて、お酒を飲んでしまうのでしょう。
だからといって、日中、忙しく働き、疲れ切って寝ている妻を夜中に揺り起こして暴力を振るうことは許されることではありません。
私自身は、25歳頃までは実家にいました。
私の実家は都心部に30分程度で行ける距離だったので、実家から出ることも考えたこともなかったです。
短大卒業後も、就職してからも、当然のように実家暮らしをしていました。
もし実家が都心から遠方だったとしても、飲んで暴力を振るう父のいる家に、母だけを残して出ることはできなかったと思います。
私は、母のことを守りたかったです。
私と母 vs アルコール依存の父
私が高校生の頃から、何度か父を精神病院に連れて行ったことがありました。
でも、精神科で入院させてくれる期間は約1ヶ月、長くても2ヶ月です。
保険の関係か?理由ははっきりと覚えていませんが、入院させることができても、また出てきてしまう。
無理に病院に入院させた場合、父は私達に激怒してきます。
だから、父が退院となると、いつも怖かったです。
入院していない期間は、複数の精神病院に相談に行きました。
当時は1990年代で、「アル中」や「DV」という言葉もリアルではなかったし、周囲も実感を持って理解できる人は皆無でした。
もちろんネットの時代でもありませんでした(まだポケベルすらなかった時代です)。
父が暴れて、夜中に警察を呼んだことが何度もありました。
でも、警察もアテになりませんでした。
電話をしてもすぐに来てくれるわけではなかったし、来てくれても、「暴れている現場を目撃しない限りは何もできない」とのことでした。
酔って暴れて大人しくなった父が、警察官と仲良く談笑してしまう・・。
後で余計に逆上するのが怖くて、警察も呼ぶこともしなくなりました。
状況を理解してくれる人が誰もいない現実
「誰に相談すればこの状況をわかってくれるのか?」
苦しんだ時期でした。
母は、当事者として、つらい状況だったと思います。
私は、子どもという立場で、母のことも父のことも冷静に見守りながら向き合ってきました。
当時、私と母が得た情報は、
- 病院は「アルコール依存症は精神疾患ではない」という意見で、一定期間しか入院させてくれない。
- 断酒会などのグループは、「本人に断酒の意思がないと意味がない(いつでも本人の意思で帰れる施設である)」。
でした。
断酒会からの帰り道、母が路上で号泣してしまいました。
父はそれを見ながらニヤニヤ笑っていました。
私は、「あー、この人(父)ほんまどうにかならんのかな」って思いながら見ていました。
別のある日、とある精神科に相談に行った際、医師が、ポロッと「◯◯病院なら、ずっと入院できるかもしれない」といいました。
(医師は、「これは独り言だ」的なことを同時に言ってました)
私はその言葉を咄嗟にメモしました。
すぐに電話番号を調べて、早速その病院に相談に行き、ものごとが急速に進みました。
その病院はその後に大きな問題になった「モラル的に大変問題のあった、今はもうない病院」の系列です。
父をそこに入院させることを決めて、私と母は、決行しました。
母の知人に協力を依頼して、なんとか父を(病院に)連行し、入院させることができました。
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父の病状、急な展開
病院の先生から、父の脳は「過度の飲酒によって前頭葉が萎縮している」とは言われていました。
だからこそ、父は自分の現状をなんとかしようとも思わなくなったのでしょうし、お酒をやめることができなかったのでしょう(人間的な弱さなどの理由で)。
お酒をやめない。
夜中に暴れ出す。
家族に暴力を振るう。
物を壊す。
そして、自分のやったことを覚えていない。
確かに、それは脳の萎縮が原因だったのかもしれません。
父を入院させることができた後も、しばらくは「また(病院から)追い出されて戻って来るのかもしれない」
病院のことを信用できなくなっていて、しばらく不安なまま、身構えて過ごしていました。
時間が経過していき、「もう大丈夫かな?」って思うようになって、やっと心が解放されました。
母から一人暮らしを提案され、私の人生が進みました。
やっと「大丈夫かな」と実感できるようになったとき、母が私に一人暮らしをすることを提案してきました。
考えたこともなかったので、すごくびっくりしました。
同時に「どうして私は家を出ないといけないの?」と傷ついた気持ちになりました。
母には理由がありました。
今まで、父の問題に、私と母の二人で向き合ってきました。
でも、きっと、もう大丈夫。
父はあの病院からは出てくることができないでしょう(という状況になった)。
母は、
「もし将来、娘(私)がどんないいパートナーを見つけてきても、絶対に反対すると思う。
だから、いつか、娘を手放す状況になったときの心の準備をさせてほしい。
(そのために、一人暮らしをしてほしい、、)」
という説明してくれました。
改めて考えると、ありがたい申し出だなぁ・・と感じました。
そして、一人暮らしをすることにしました。
この時点までは、私自身は、恋愛で問題が起こるようなことはありませんでした。
中学・高校と女子校だったし、特に異性に興味をもたずに高校を卒業しました。
短大に入り、アルバイトをするようになって、ようやく初めて好きな人ができ、始めて彼氏ができた!っていう程度でした。
男性とお付き合いした際に、「私って意外とワガママいうんだなぁ」とか「プライド高いのかも?」などと自覚するようになりました。
私の恋愛で、問題が浮上してきました。
問題が出てきたのは、一人暮らしを始めてしばらくして父が亡くなって(死因はわからないです)、その後から起こりました。
恋愛においては、私は「父とは全然違うタイプの人」を選んでいたつもりでした。
当時の彼氏も、飲酒が好きでもなく、無難なタイプの人でした。
ある時、私がアロマのサロンをやりたいな~と思っていたら、彼から
「僕と同居したら、部屋数の多いところに住めるんじゃない?(自宅開業できるよ)」
と申し出があり、一緒に住むことになりました。
もちろん、その前にお互いの親に会ったりもしました。
実際、アロマのサロンは開業できました。
でも、そのうちに彼がだんだんとうつ症状になっていってしまいました。
彼は4歳年下で、留年もしながら大学生をしていました。
そして、うつ状態でひきこもっていたので、また半年の留年をして・・。
それでも、なんとか就職先も見つけて卒業はできました。
でも、、また途中から仕事にいけなくなっていって・・。
その彼は、飲酒はしませんが、パチンコに行く人でした。
パチンコに行っているときは、一切連絡が取れなくなる(没頭するのか、うるさくて聞こえないのか?不明でしたが)
ある意味、彼も父も似ていると思いました。
その違いは「お酒に逃げるか、パチンコに逃げるか?」だったのか、、!!と思いました。
結局、その彼とは入籍をしましたが、私の所有物を壊したりするようになっていきました。
最終的には私に対する暴力にまで至って、別れることにしました。
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望んでいない「モテ期」が到来して、周囲の異性を傷つけ続けました。
その頃、私は整体の学校に通っていました。
彼と別れる前には、私に怒った彼が学校に文句を言いに(殴り込みに?)来たこともありました。
個人経営の小さな専門学校ですので、私は「渦中の人物」となっていました。
いろいろあって大変な時期でしたが、この時期の私はやたら異性にモテていました。
正直、モテたとはいえ、楽しくもなかったです、、。
自分が好きな人から好かれる、、というわけでもないのでテンションも上がらないし、嬉しくもなかったのです。
当時は、心の中がただひたすら「空虚」という状態でした。
なんとか気持ちや状況が変わらないか?
きっと、私はそれを求めていたのだと思います。
とりあえず付き合ってはみたり、、、。
でも、本当に・・・何も得られるものはなかったです。
この時期のことを振り返って気づいたこと
当時、私の心の中では、「私は私のことが好きではない(私は私が嫌い)」という思いが頻繁に出てきました。
自分にアプローチしてきた異性に対して、「私がどれだけ嫌なヤツか、教えてあげるね!」という感覚が根底にあったと感じです。
私の中の私が言う。
でも、表面的には完全に無意識です。
「証明したい」という気持ちだけはもっていました。
私は自分が嫌い。
でも、あなたは私を好きだという。
それって間違ってるよ?
(あなたが間違っていることを証明してあげる)
そのような行動をしていました。
当時は気づかずやっていたんです。
相手に嫌われるような、嫌な行動の「試し行動」でした。
相手は、傷ついた顔をして去っていきました。
当時は、「(私の中で)何が起こってるんだろうなー」とうっすら疑問に感じていました。
でも、誰に相談したらいいかもわからず、モヤモヤしながらもそのまま過ごしていました。
私が父への思いを手放した方法について(手放すワーク)
あまりにも似たようなパターンを短期間に繰り返したので「これは何か意味があるなぁ」と感じました。
私は自分の中のその理由(原因)を知りたくて、自分の中で、理解を深めていきました。
この作業が、現在のカウンセリングとして提供している技術につながりました。
整体師になる過程で学んだ知識として「易学カウンセリング」「気功」や「瞑想」がありました。
その知識とイメージなどをノートに書き殴ったりして、続けていました。
そして、見えてきたことがありました。
- 私の場合、異性関係(男性に対して)ばかりに問題が起こる。
女性(友人など)は、誰もが協力的で好意的で、何も問題がありませんでした。
私の性格の悪いところが露呈するのは、男性に対してだけだったのです。
そして、もっと深堀りをしていったところ、気づきがありました。
- これは、私の「父に対して復讐したい」という思いが原因なのかもしれない!
- 私は父のことを、許していない。
- でも父は死んでしまった。
- (父がしたことに)納得がいかない。そんな思いがあるのかな?って思いました。
付き合っていた男性に対して、うっすらと感じていたことは・・。
「今はやさしい顔をしてるけど、どうせいつかあなたも暴力を振るうんでしょ!」
「やるなら早くやれ(暴力など)!そして、早くどっかいけ!」
当時、なんとなーく、感じていたことです。
自動書記のように、思ったことをノートに書き殴っていくうちに、そのことに気がつきました。
書きながら、とても納得がいきました。
自分で認識せずにやっていた!!・・このことにびっくりしました。
「父の思い」をイメージ(空想)してみたりもしました
ここまで把握ができたら、あとは気功(イメージやエネルギーワーク)を自分なりに使ってみました。
気功の瞑想の要領で、以下のように考えてみました。
生きることに不器用だった父。
口下手で、内弁慶で、思ったことを言えなかった父。
父は私を傷つけたけど、そのことをどう思っているだろう?
そんな父が、今、霊として私の近くにいたとしたら・・?
何を私に伝えたいと思っているだろう?
その答えは、、
父は私に、「ごめんね」。
そう伝えたいと思っているんじゃないかなぁ。。。
そして、私自身もこう考えました。
父も、自分の人生がうまくいかないことを望んでいたわけではない。
わざとアルコール依存症になったのではない。
思ったように生きられなくて苦しかったから、お酒に逃げてしまったんだろうなぁ。
父は、弱い人間だった。苦しんだんだなぁ。
そこまで思い至って、始めて「もう父のことを手放そう」って思いました。
なんだか気持ちがスッキリして、楽になった感覚がありました。
それから、私の周囲の環境が、どんどん変わっていきました。
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同時に、現実世界で起こっていたことについて
父への思いを手放した経緯を書きましたが、現実生活では整体師として独立するために努力する日々でした。
とにかくすべてがうまくいっていませんでした。
時系列が少し重なりながらですが、仕事での経緯について説明します。
離婚で急遽、実家に戻り、整体の学校の勉強に集中することにしました。
同棲を解消したので、アロマのサロンを、休業することになってしまいました。
アロママッサージに通ってくださった方や、出張マッサージなどもできなくなりました。
とてもつらかったです。
顔全体に湿疹(プチプチと汁が出る症状)が発症
離婚を決意した当日、急遽実家に逃げたのですが、その翌日から顔全体の肌荒れが急激に悪化しました。
朝起きたら、顔の半分から膿(ウミ)が出ていました。
その後、改めて整体サロンを開業しようと決意して動きましたが、その時期は顔の湿疹が大爆発していました。
私は幼少期からずっと喘息がひどくて、慢性的なアレルギーについて深く考えてきました。
薬を使ったら症状は一時的には収まるけど、それは一時的なものです。
喘息との付き合いの中で「薬をやめたら、また湿疹が出る。繰り返しになる」
このことがわかっていました。
薬そのものが病気を根本的に改善させるものではない・・・。
だから、顔の湿疹には薬を使わずに乗り切ろうと決意しました。
やるなら自分の施術の分野(整体や東洋医学)で向き合いたかったのです。
販売されている化粧品には化学物質がたくさん入っていて、トラブルの出ている肌には使えません。
だから、自分で配合した手作りコスメを使うなどの対策をしていました。
顔の湿疹は、精神的につらいものでした。
「整体の仕事を軌道に乗せたい」と思っていましたが、顔の湿疹の影響も受けて、精神的にネガティブになることが多かったです。
同時に精神面でも問題がありました。
自分の感情をアウトプットする方法が下手で、他人とのコミュニケーションがうまくできない・・・。
自宅での整体の仕事に加えて、常にアルバイトや契約社員などの他の仕事もしていました。
この間、ずっと自分の感情のコントロールに本当に苦労していました。
バイトや会社では、幸いにもいい条件で雇ってもらっていました。
せっかく仕事に恵まれたのに、私自身の気分の波で、周囲に嫌な思いをさせている・・。
同僚が私の顔色をうかがっている。
それを感じたら、、ますますイライラして機嫌が悪くなってしまう・・。
こんな自分をどうしたらいいのかな、、って自分でも困っていました。
自分の機嫌の波だけではなく、数々の試練に見舞われました。
私は子供っぽく単純な性格で、素直といえばそうですが、気分の波に自分でも対応できずにいたのです。
つくづく「わがままで扱いにくい性格」でした。
当時の私の仕事ぶりを俯瞰してみてリストアップしてみました。
仕事はできて、出世が早い。
恐れずに意思を伝えて、仕事の流れのシステムを変える提案し、効率化が成功(それを評価された)。
でも、、同僚とはうまくいかない。
機嫌が悪いときは雰囲気が悪い。
周囲が自分の機嫌によって、振り回される状況になりがち。
たとえ仕事ができても、コミュニケーションがうまくいかなければ意味がありませんね。
自分自身でも、うまくいっているとは思えませんでした。
整体の仕事をするにあたって、「これではいけない」と真剣に悩みました。
こんな整体師に人を癒やすことができるとは思えませんからね!
当時、ノートに以下のようなことを書き出していました。
- 整体師として「あるべき人柄」とは?
→今の自分みたいな気分の浮き沈みが激しくてもいいとは思えない。
→では、理想の整体師とはどんな人か? - お客様に、気分屋の上司や同僚のことを相談をされて寄り添えるのか?
→自分の心理面を深堀りすることで気づきが得られる。
→自分が乗り越えられたら、その方法が自分のノウハウになる。
→お客様からの相談に答えられるようになるかもしれない。
項目を書き出す(・点の部分)、その下に短文を書く(→矢印の部分)という形式で書いていきました。
私には「なりたい整体師像」がありました。
日常で、自分の感情が波打った内容を書き出すと、いかに自分が「感情的で子供っぽいか」がよくわかりました。
身に起こった出来事→感情の動き、他人の感情など・・。
いろんな方向から物事を深めてたくさんの思考をめぐらせ、書いて、、ひたすら自分の内面を深堀りする作業を続けていきました。
「このままの自分ではいけない。変わらなくては!」と切実に感じていました。
顔に湿疹が出ていても、仕事は続けよう。それがあるべき整体師の姿だ。
この姿が、クライアントの励ましになるかもしれない。
私も、日々、がんばって生きている姿を人に見せていけばいい。
それが私の真実の姿だから。
湿疹に対して、薬で「先延ばし」にするよりも、症状と向き合おう。
そう考えて、湿疹がひどい時期でも休まず動き続けました。
(人が見てびっくりするほどの症状のとき、会社で通院を勧められて帰宅したことはあります)
顔の状態に関係なく、昼の仕事に行き、帰宅後は整体サロンのチラシを路上で配ったり、整体の施術をしたりを続けました。
「人とうまくいかない」という経験も、自分なりに反省や改善を繰り返しながら乗り越えてきました。
「この経験は、いつか必ず、人を癒やす仕事に役立つはず」
「苦労すればするほど、乗り越えたときに私の強みになる!」
そう信じて、必死で毎日過ごしました。
正直、なんであそこまでがんばれたんだろう?今ではそう思うほどパワフルでした。
「人の表面だけを見る整体師ではなく、深く寄り添い、癒せる人になりたい」
その思いで、自分の「ものの考え方」を根底から見直していきました。
顔アトピーの経緯について
顔アトピーが発症したのは、離婚がきっかけでした(1999年頃)。
悪化と寛解を繰り返し、7~8年ほどで、まったく出なくなりました。
その間、ずっと自分の心の中を掘り下げ続けていました。
その後、コロナの時期に整体業が暇になり、整体の顧客に対してオンラインカウンセリング(当時は遠隔ヒーリングも)を提供するようになりました。
試行錯誤を繰り返して、最終的に今の形のカウンセリングとなりました。
「心の中をしっかりと掘り下げて、クライアントに対して物事の考え方・受け止め方を理解し、楽な生き方ができるようになってもらう」そのためのお手伝いを続けています。
気づきのタイミングは終わりがないし、気づいていないこともまだありますよ。
全てにおいて、気付きが終わる(悟り切る)ことができると思いますか?
私は、それはないと思います。
悟りきったら、きっと「この世で修行する意味がなくなる」
イコール、それは死です。
学ぶことがたくさんあるから、楽しい。
完璧になんて、なれない。完璧になる必要は、ない。
不完全な私。
でも、私は私を愛しています。
ここで、数年後の私の気づきの例を挙げます。
「父のことを許せない」という思いが、異性に対する言動に出ていた、、ということを書きました。
でも、ここには、もう一つ、原因がありました。兄です。
上述しましたが、父の暴力に対処したのは、母と私です。
兄は逃げました。
私にとって、
→父は「自分の弱さを家族に対して暴力で憂さ晴らしする男」、
→兄は「問題に向き合わず、逃げる男」
として存在したのです。
私は、父のことを許していないことに気がついて、その気持を解放できたことで、心が楽になり、落ち着きました。
その状態から、ずっと後になって、私の心の中にいた兄の存在にも気づいたのです。
このように、大きな気付きや悟りがあったからといっても、これでOKだ!・・・それで終わり!
そういうものでもないなぁ、って思いました。
きっと、生きている限り、そういう「気付き」が続くんじゃないかと思います。
「完全」とか「完璧」を目指さなくてもいいですよね。
こうやって、私自身も、現在進行系で、日々の経験、過去の記憶を深堀りしながら過ごしています。
私自身のメンタルの癒やしが進まなかった現在を想像してみたら・・
今は私は毎日、人生がゲームみたいな感じで、落ち込むことはあんまりありません。
ここで、長年取り組んで、得られたこの成果がなかったとしたら私はどんな日々だっただろう?と想像してみました。
- 友人・親戚を信用できない(相談できなかったし、話した親戚も理解がなかった)。
- 警察を信用できない(助けてくれなかった)。
- 男性が信用できず、精神面で攻撃を続けたかも。
- 人との信頼関係を築けない、維持できないかも。
- 周囲の人達が親切だと感じられず、緊張・警戒して毎日を生きていたかも。
基本的に攻撃的な性格でしたが、それは、私は「自分を守りたかったから」です。
今は、周囲の誰に対しても温和でいられます。
周囲の人みんなが「いい人・やさしい人」だと感じるので、何も恐怖を感じずにいられます。
私が周囲に対して感じている印象が、随分と変わったことを感じます。
AC(アダルトチルドレン)のカウンセリングについて
いかがでしたか?
「私、アダルトチルドレンかも?」
そう思ったあなたは、これから回復に向けて歩んでいきましょう。
私自身は、整体や心理学を学んだ時期にセルフワークに取り組んでいきました。
同時に顔アトピーが爆発していて、精神的に鍛えられました。
カウンセリングの勉強を、自らの体験で学んできました。
もちろん、自分だけですべてをやり遂げたわけではありません。
整体や気功の勉強会で、師や同門の人たちからヒーリングを受けたり、気功で癒やしのためのヒントを貰うなど、他人の力に助けられたこともたくさんありました。
すべてのことを「自分の力で(自力で)」というのは無理です。
「自力」と同時に「他力(他者から助けてもらうこと)」も必要だと感じました。
アダルトチルドレンのカウンセリングも、
「本を読んで自分でやってみようと思ったけど、うまくできているかわからない」
「自分でやってるけど効果が感じられない」
そういうお悩みも頻繁に耳にします。
当然です!
私達は「人とのコミュニケーションありき」で人生を過ごしてします。
人の力があるから、気付けることもあります。
今まで一人でがんばってきた人こそ、カウンセリングを受けていただきたいです。
きっと、たくさんの気づきがあると思いますよ。
整体で学び取ったエネルギーワークも、カウンセリングに活用しています。
誰かから学んだ心理学のセオリーではなく、「整体師としてのオリジナルのカウンセリング」です。
気功でもカウンセリングでも、「気付き(ヒーリング)」が得られたら、気持ちが「スッ」と楽になるのは同じです。
今、自分の精神的な不安定にお悩みのあなたは、しっかり寄り添ってくれる人を見つけてください。
あなたを悩ませる環境から一時的に逃れる方法も考えてください(DVや毒親などの場合)。
私は、あなたが今の人生で経験したことを肯定できる場所へと、一緒に歩んでいきたいです。
まずは初回1,000円のカウンセリング
その悩み、1人で抱え込まずに、話してみてください。
元アダルトチルドレンがあなたの話を聞きます。
心のモヤが晴れるようになりますよ。
\24時間いつでも予約可能/
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カウンセリングでは、対話を中心に、あなたが自分の内面について自然に(苦しまず)振り返ることができるよう、お手伝いいたします。
定期的にカウンセリングを受けることによって、今までの人生の振り返って心の中を整理しましょう。
そして、新たなワークをしながら、「毎日楽しく生きるコツ」を身につけていきましょう。